ジョンやグレアムたちが「クソッ、こんな世界なんてウンザリだ」と言いながら笑いをとるタイプだとすれば、テリー・ジョーンズは「ワオ!世界って、なんて楽しいの!」というタイプ。裸でオルガンを弾いているときも(『空飛ぶ』第2〜4シリーズ)、ネズミちゃんを叩き殺しているときも(2話)、露出狂のキャラクターを演じているときも(8話)、ほんとにイキイキしています。嬉々とする彼の姿を見ていると、くだらなーいと思いつつも、なぜか楽しい気分になっちゃいますよね(…ならない?)。 いじめられ役やボケ役が多いのも、彼の特徴の一つ。「今日の考古学」(21話)のカストナー教授は背が低いという理由で貶められ、「コミュニスト・クイズ」(25話)のカール・マルクスは苦手問題ばかり出されて景品の応接セットを取り逃し…。マフィアにそそのかされるロン・オブビアス(10話)やスペイン宗教裁判のビグルス(15話)などでもイイ味を出していました。ちなみに、イジメ役の多いジョンがパイソンズ一番の長身にであるのに対し、テリーJは一番背が低かったりします。 テリー・ジョーンズは1942年、イギリス・北ウェールズのコルウィン・ベイで誕生。その後、戦争が終わるとすぐにロンドン南西部に位置するサリー州に引越しました。ジョーンズが情熱的なウェールズ気質であることは自他共に認めるところですが、実際に少年期を過ごしたのはサリー州で、彼自身はあまりサリーを気に入っていなかったみたいです。 中学校でのジョーンズは、勉強も良くできる素直な優等生。ラグビーに熱中し、生徒会でも中心メンバーを務めるなど、いろいろな活動に励んでいたようですが、演劇に親しむ機会には恵まれませんでした。というのも、校長先生が「俳優なんて、ホモセクシャルか共産主義者に決まっている」という、ものすごい偏見の持ち主だったため(パイソンのスケッチで、グレアムあたりが言いそうなセリフだわ)。そのかわり、ジョーンズは宿題をしながら「 The Goon Show 」などのラジオ・コメディを聞いていたそうで、これが彼の将来に大きな影響を与えました。 1961年、ジョーンズはオックスフォード大学セント・エドモンド・ホール・コレッジに入学。ケンブリッジ大学にも合格していましたが、オックスフォードの通知の方が先だったので、そちらに決めたのだとか(もしケンブリッジに行っていたら…?)。大学での専攻は英文学で、とくに中世史やチョーサーに興味を持っていました。『モンティ・パイソンとホーリー・グレイル』がコメディ映画にあって、あれだけリアルに仕上がったのは彼のおかげです。 ジョーンズが演劇に熱中し始めるのも大学に入ってから。普通の学生演劇を経験した後、「****(four asterisks)」「オックスフォード・レヴュー the Oxford Revue 」などのコメディ公演に参加し、大きな成功を収めました。そうした活動の中で出会ったのがマイケル・ペイリンで、以降2人は卒業後の下積み時代、モンティ・パイソン、そしてパイソン後の活動と、長年に渡ってライティング・パートナーを組むことになります。 卒業後は脚本編集としてBBCに務めてコメディ番組にスケッチを書き、そのうち数作には自ら出演もしていました。特に、マイケルと組んで参加した『The Frost Report』にはジョン・クリーズ、グレアム・チャップマン、エリック・アイドルもおり、後のモンティ・パイソンにつながる足がかりとなりました。また、テリーJ=マイケルが執筆・出演していた『Do Not Adjust Your Set』にはテリー・ギリアムがアニメーターとして参加しており、それによってテリーJが『空飛ぶ』のスケッチ・リンキングに関心を寄せるようになったことは想像に難くありません。 ジョーンズが未来の奥さん・アリスンさんと知り合うのもこのころ。アリスンさんもオックスフォード卒ですが、2人が出会ったのは大学ではなくBBCで、彼女はそこのアルバイトをしていたそうです。1970年に結婚し、その後アリスンさんはロンドン大学の生化学研究者になりました。 ジョーンズはモンティ・パイソンでも、マイケルとライティング・パートナーを組んでスケッチを制作しました。バスター・キートンやジャック・タチが好きという2人が好んで書いたのは、視覚的な要素で笑わせるスケッチ。シリーズ初期に見られる「おとこの生きがいは公衆の面前で服を脱ぐこと」(『空飛ぶ』4話)のような無声映画風スケッチは、ほぼ2人の作と言って良いのではないでしょうか。また、シュールなスケッチが多いのも特徴の一つ。不条理なスケッチはジョン=グレアムも書いていますが、どんなにムチャクチャであっても、彼らはそこに理論的な裏付けを求めたと言われています。それに対して、理屈も道理も考えずに突き進むのがテリーJ=マイケル。「スパム」の連呼で終始する有名な「スパム・スケッチ」もテリーJたちが書いた作品で、ジョンたちはこのスケッチを非常に嫌がったそうです。 また、テリーJはスケッチだけでなく、番組構成にも大きく貢献しました。はじめはプロデューサーのイアン・マクノートンを手伝う程度でしたが、次第に本格化。それが高じて『ホーリー・グレイル』『ライフ・オブ・ブライアン』『人生狂騒曲』の映画3作では監督も務めました。 ただ、悪い言い方になりますが、テリーJの「作品を仕切りたがる」性格は、パイソンズに良い影響ばかりをもたらしたわけではありませんでした。スケッチをめぐって、感情に走りやすいテリーJが冷静な性格のジョンと激しく対立することもしばしば(テリーJが、ジョンにタイプライターだか椅子だかを投げつけたこともあるとか)。中には、ジョンが第4シリーズに参加しなかったのはテリーJの支配的な傾向にウンザリしたからだ、と指摘する評論家もいるようです。 パイソンの活動後もマイケルと組んでコメディ番組『リッピング・ヤーン Ripping Yarns』(BBC-2/1976、77)を制作、それ以降はコメディに留まらず幅広い分野で活躍しました。パイソンでのギャラをレストラン経営に投資し、1年間のオフをとってチョーサー研究に専念。1980年に研究書『 Chaucer's Knight 』を書き上げ、歴史関係のドキュメンタリーにも多く出演しています。また児童文学作品も手がけ、息子ビル君のために書いた『エリック・ザ・バイキング Eric the Viking 』は映画化もされました(監督もテリーJ)。 |
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