パイソンズ唯一のアニメーターにして、唯一のアメリカ人、テリー・ギリアム。奇想天外なアニメーションは、パイソン作品の特徴とも言えるスケッチのリンキング(連鎖)で重要な役割を果たし、またパイソンズのヴィジュアル・イメージも作り上げました。今となっては、すっかり「映画監督テリー・ギリアム」ですが、『空飛ぶ〜』では裸でオルガンを弾いたり、変なオカマ役を演じたりとなかなかの名脇役ぶりを発揮。カエサル曰く、「汝、豆をむさぼり食べよ」(何かを成し遂げるには捨て身の気概が必要である、という意)。 テリー・ギリアムは1940年、アメリカ合衆国ミネソタ州のミネアポリスに生まれました。自然がいっぱいの環境で育ったギリアムは、トム・ソーヤやハックルベリー・フィンのような毎日を送ったそうで、木の上に小屋を作ったり、そこから雪の上へダイビングしたり、と随分やんちゃな子どもだったみたいです。 1951年、妹が喘息だったため、ギリアム一家は雪のミネソタを離れてカリフォルニアへ引越。その後、ギリアムは地元のバーミンガム高校に入学しました。パイソンでの姿からは想像もつきませんが、ギリアムはかなりの優等生。成績優秀、棒高跳びでは賞を貰い、生徒会長も務め、ダンスパーティではキングに輝くという、デヴィッド・ワッツみたいな高校時代を送りました(ギリアムによれば、当時の南カリフォルニアの教育水準が恐ろしく低かったから、だそうですが)。 1958年、オキシデンタル・カレッジに入学。理数系が得意だったギリアムは始め物理学を専攻しますが、6週間後には美術に転向。しかし、結局は政治学に落ち着き、学業もそこそこに学内誌「ファン」の編集など励んで、イラストレーションの腕に磨きを掛けたのでした。卒業も間近になると、ギリアムは自分の書いたマンガをハーヴェイ・カーツマン Harvey Kurtzman(編集者、漫画家。『Mad』の初代編集長)に送り、その結果、卒業後はN.Y.で同氏が編集する『Help!』で編集アシスタントとしての職を得ました。 『Help!』で特筆すべきは、同誌に掲載されたギリアムとジョン・クリーズのコラボレーション。たまたまケンブリッジ・サーカスの公演でニューヨークに来ていたジョンをフューチャーして、ギリアムが写真によるコマ割りマンガを制作、この出会いは後にギリアムがイギリスのテレビ界に進出する上で、重要な布石となりました。(ジョン扮するビジネスマンがバービー人形にハマるというストーリー。このマンガは、Kim"Howard"Johnson著「The First 280 Years of Monty Python」で読むことが出来ます)。 しかし『Help!』は3年で廃刊となり、何を思ったか、ギリアムは州軍に入隊。『テリー・ギリアム映像大全』(ボブ・マッケーブ著、河出書房新社)によれば、それはヴェトナム戦争(1954-73)の徴兵を免れるための一手段だったらしく、ギリアム自身は反政府・反戦の漫画も描いたりしていました(渡英後、ギリアムは英テレビ界の知人らの助力を得て、米軍名誉除隊というかたちでヴェトナム戦争の徴兵を忌避)。 州軍除隊後もニューヨークを離れ、ヨーロッパをヒッチハイク旅行するなど、なかなか悩める青年時代を送りました。でも、軍ではキャンプ内新聞の編集を手がけ、旅行中にお金が無くなるとパリの雑誌社でアルバイトをしたりと、「芸は身を助く」を地で行くさすらいのイラストレーターって感じで、かっこいい。以下はギリアムの言葉。「漫画家って、ミュージシャンの次にいいもんだよ。ギターをかき鳴らせば、言葉なんて問題にならないだろ。たとえピンチに陥っても、マンガはギターと同じ効き目を発揮するんだ」(George Perry著「Life of Monty Python」より)。 ニューヨークに戻ってからも、子ども向けの本にイラストを書いたり、広告代理店にアートディレクターとして就職したりしますが、いまいちパッとしなかったため、1967年、ギリアムは仕事の拠点をロンドンへと移しました。しかし、仕事はいくつか見つかったものの、出版社が潰れたりして上手くいかず、ついにギリアムは出版業に見切りをつけ、テレビ界に進出することを決意。 そこでギリアムの頼みの綱となったのが、コメディ界の輝ける新星ジョン・クリーズ。ジョンはギリアムに、プロデューサーのハンフリー・バークレー Humphrey Barclay を紹介。自身も漫画家だったバークレーはギリアムに興味を持ち、子供向け番組「Do Not Adjust Your Set」でアニメーション制作の仕事を与えました。その番組を通じて知り合ったのが、後にパイソンズとなるマイケル・ペイリン、テリー・ジョーンズ、エリック・アイドルです。こうしてアメリカ人イラストレーターのテリー・ギリアムはイギリスのコメディ番組「モンティ・パイソン」への足がかりをつかんだのでした。めでたし、めでたし。 一口にアニメーションといっても様々ですが、ギリアムが作っていたのは、切り絵によるアニメ。美術作品や昔の写真、ギリアム自身によるイラストを切り抜いて、少しずつ動かしたものを撮影し、アニメに仕立てていました。この方法は時間と手間が掛からない分、セル画アニメーションのような滑らかな動きはなかなか出せませんが、あのギクシャクとした動きは、ギリアムの狂気じみた表現世界にすごくマッチしていますね(でも、お金と時間に余裕があったら、ディズニー的なアニメにも挑戦してみたかったんだそうです)。余談になりますが、ギリアムのアニメが好きな人には、チェコスロヴァキアのアニメーション作家ヤン・シュヴァンクマイエル Jan Svankmajer の作品もオススメ。粘土と切り絵を使って繰り広げられる残酷で破壊的なユーモアは、ギリアムに通ずるものがあります。 モンティ・パイソンでは毎回、ミーティングを開いて番組の構成やスケッチを決めていましたが、ギリアムはあまり参加していませんでした。アニメの制作に忙しかったせいもありますが、一番の理由はプレゼンテーションをするのがものすごく苦手だったため。どんなものを作るのか説明してもメンバーは戸惑うばかり、結局は完成作品を見せて初めて分かって貰えるという始末でした。でも、議論好きのイギリス人に囲まれながら、奇想天外なアニメーションの筋を言葉で説明するというのは、ギリアムでなくともイヤになるかも(ジョンに言わせれば、ギリアムのボキャブラリーが30語しかないから理解できないんだそうですが)。 ギリアムがスクリプト(脚本)の方に関わることは殆どありませんでしたが、役者としては脇役で参加していました。出演回数は少ないのに、「スペイン宗教裁判」(「空飛ぶ」第15話)のファン枢機卿や、映画『ホーリー・グレイル』の魔法使い、『ハリウッド・ボウル』の「イジメ発達史」などなど、オイシイ役の多いギリアム。名役者とは言わないまでも、あの類人猿っぽい演技には光るものがあります。 ちなみに彼の奥さんは、『空飛ぶ〜』をはじめとするパイソン作品でメイキャップを務めたマギー・ウェストン。彼女は『未来世紀ブラジル』などでもスタッフとして参加しました。…ジンジャーのメイクをしながら、愛を育んでいったのでしょうかねぇ。 もう一つ忘れてならないのが、映画監督としてのテリー・ギリアム。『ホーリー・グレイル』ではテリー・ジョーンズと共同監督を務め、さらに『人生狂騒曲』では、パイソンと一線を画すかたちで、短編『クリムゾン、老人は荒野をめざす The Crimson Permanent Assurance 』を制作しました(その「一線」も、本編では飛び越えられちゃいますけどね)。 すでに『ジャバウォッキー Jabberwocky 』(1977年)や『バンデットQ Time Bandits 』(1981年)を発表していたギリアムは、パイソン以降も監督としての道を進みました。中でも『未来世紀ブラジル Brazil 』(1985年) のカルト・ブームは、「監督テリー・ギリアム」の地位を確固たるものにしました。1995年には『12モンキーズ 12 Monkys』(1995年)が大ヒット、最近も『ラスベガスをやっつけろ Fear & Foathing in Las Vegas』(1998年)を発表したので、「パイソンは知らなくてもテリー・ギリアムは知っている」という人の方が多いのかもしれませんね。彼の作品に貫かれる幻想的な映像世界は本当に素敵。パイソンファンに限らず、オススメしたい監督です。 |
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